由緒
御由緒沿革


当神社は、元和・宝永・弘化の年間における行田町大火の際、再三の類焼の災禍に会い、旧記重宝等を焼失して御創祀の次第は判然と致しませんが、口碑によると源頼義・義家が、奥州討伐のためこの地に滞陣した折、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。
当初、佐間村田中に鎮座、俗に田中(でんちゅう)八幡と称せられました。
天文年中に、現在の地に移されこの時、忍城主成田下総守長泰公は深く当社を崇敬して社殿を修補し城下総鎮守といたしました。是れより、「城主八幡」また社殿の向きから.「西向き八幡」の名があります。
爾来、代々城主の尊崇篤く殊に阿部豊後守は、八幡大神の御神像を奉献し、次いで阿部正識(まさつね)公も自筆の額を御献進されました。
社殿の造営は、元和五年再営ののちに宝永年間に焼失、宝永四年に再建、宝永五年には幣殿・拝殿を再建しております。弘化三年行田大火により社殿全焼の時、町全体が焼失し、氏子による社の再営が不可能となり祀職家にて同年本殿を再建いたしました。
現在の社殿は、皇紀二千六百五十年を記念して造営が進められ、平成元年十一月の竣功であります。次いで平成十二年には参集殿が竣功いたしました。

御祭神


誉田別尊(ほむだわけのみこと)[応神天皇]
応神天皇にして、弓矢の神として尊崇せられると共に、大陸の文化を取り入れられ、わが国文教の祖、殖産興業の神として崇められています。

気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)[神功皇后]
仲哀天皇の皇后にして神功皇后と申し上げます。応神天皇とは、御母子であらせられることから、安産、子育ての神として信仰があります。

比売大神(ひめのおおかみ)
市杵島姫命・田霧姫命・湍津姫命の三神にして天照大御神の神勅により宇佐島に天降り給いし神で、道中安全・交通安全・学芸の道を司り給うご神徳があります。

大物主神(おおものぬしのかみ)
別名大国主神と申し上げ、縁結びの神として有名です。

神素盞鳴尊(かむすさのおのみこと)
天照大御神の弟神で邪悪なるものを追い払い、人々の苦しみを除いて守護される神として知られています。(開運厄除)

社宝


「神功皇后三韓征伐凱旋之図」納額
弘化二年(1845年)鈴木其一筆

この納額は鈴木其一の作で、縦一メートル三十五センチ横一メートル六十五センチの木造扁額です。図柄は桐の板を横にはぎ合わせ、金箔を押した豪華な素地に雄勁な松巌、波を背景に三韓を征して凱旋した武装の神功皇后と武内宿彌に抱かれた応神天皇即ち胎中天皇(みはらなかの天皇)と随臣達を描いた彩色燦然たる完好の画面で日本書記の史実を描出したものです。



神道裁許状



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